●●1966年と仮説実験授業●●


板倉 聖宣

 1966年-今年あるいは来年は、仮説実験授業にとって決戦の年になりそうです。
 これまで、私たちは着実に仮説実験授業の研究を進めてきました。そしてすでに100人をこえる人びとによって授業が実施され、すばらしい成果をあげていることが直接間接につぎつぎに報ぜられるようになりました。しかし、これまでの研究運動の展開はなんといっても地道なものでありました。私たちは、仮説実験授業の研究が流行化することを何よりも警戒してきたのです。
 これまでの日本の教育界では流行が多すぎました。研究が爆発的な普及-流行に耐えうるほどに充分準備されていないうちに流行がおこり、そのために流行の嵐がすぎ去ったあとには、価値ある研究の成果までがばかにされ、忘れ去られるというようなことがしばしばおこりました。私は、そのようにして否定されてきたものを私たちの授業についての考え方の中に数多く復活するよう努力してきたので、ことさらこの歴史の教訓を身にしみて感じざるをえないのです。
 しかし、教育研究の流行というものは、その提唱者や先駆者の意図だけで左右されるものではありません。海外の教育思想の紹介などの場合には、最初の紹介者がその普及についても全権をにぎることができないのは当然のことですが、そういう場合でなくとも、流行はある場合には不可避的におこります。ある教育理論、教育思想が国産であったにしても、それが100人をこえる人びとによって熱心に支持され、それらの人びとが独自にその研究をすすめはじめれば、もはやその理論の提唱者・先駆者の意志とはかなり独立に運動が展開するようになるでしょう。そして、ジャーナリズムがそれをとりあげて流行化することも容易になります。仮説実験授業の研究もいまやそうなりつつあると思われるのです。
 研究の流行-つまり爆発的普及も、必ずしも悪いわけではありません。ただそのためには、その爆発的普及による疑問に答えうる理論とその実験的証拠と、それにもとづいて正しく応答にあたることのできる人的体制がととのっていなければなりません。少なくとも10人以上の人びとが自分自身の言葉でもってその理論を正しく説得的に解説できるようになっていなければなりません。そういう体制ができる前に不用意にジャーナリズムのさそいにひっかかることのないようにしなければなりません。しかし着実に研究を発展させ、そのような体制を整えるためには仲間をふやすーつまり普及していかなければならないので、普及をおろそかにすることはできないのです。着実な普及のつもりだったものが導火線になって流行化することがあるのでむづかしいのです。
 一度流行化してしまったら、それに無関心でいるわけにはゆかなくなります。あらゆるところから出てくる疑問にこたえるだけでなく、全力をあげて、あらゆる誤解や悪口とたたかわなければなりません。これが決戦というわけです。そのときのたたかい方いかんで流行化を小規模におさえ急速にして着実な発展の基礎をきづくこともできるのです。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、今年あるいは来年あたりにそういう事態がやってくる可能性が大きいと思うので、そのための準備をしなければならないというのです。
 それなら、何を準備すべきなのでしょうか。研究をさらに着実に発展させるということが、その準備だといえるでしょうが、問題はどのような方向に発展させるか、ということです。流行化に対処するためには、理論とその実験的証拠が誰の目にも理解しやすいような形で準備されなければなりません。少数の仲間うちでは、「どうもこういう気がする」とか「だいたいこうだった」でも納得しあえることでも、多くの人びとを相手にするときにはだれをも納得させずにはおかない確実な証拠と論理とを必要とするのです。その点、私たちの研究はまだまだ自己納得的で、他人説得的になっていないように思われます。せいぜい味方説得的段階で、敵説得的な段階にまで達していません。研究をそういう段階のものにまとめてあげる仕事を急速に進めることが大切でしょう。
 それから、もう一つ心すべきことは、確実な証拠をもっていいうることと、まだかなりたしからしい仮説としてしかいえないことと、かなりばくぜんとした予想にすぎないこととを混同しないで提示することです。流行化のおそろしいのは、このような区別をもみ消してしまうことにあるからです。このための準備をするためには、じつはまず先にあげた敵説得的な論理をきたえることをしなければなりません。敵をも説得しうる確実な証拠をもった事柄をシャープにおしだすことによってはじめて、まだそのような段階に達していない考え方もはっきりしてくるからです。
 しかし、なによりも心すべきことは、私たちが仮説実験授業の流行化-爆発的普及を望んでいるものではない、ということを常に明確に宣言すべきことです。教育の発展のためには、たしかなことをたしかな仕方で、着実に普及していかなければならないので、権力的な方法や、ジャーナリスティックな方法をかりて安易に普及させていこうとする考え方は根本的に私たちの理論とあいいれるものではないということを明らかにしなければなりません。仮説実験授業は、思想運動や主義の運動ではなく、科学の運動なのです。科学はわかろうとすれば誰にでも分かるはずだし、誰にでも分からないものは科学ではないのです。そういうものと流行とは根本的にあいいれないのだ、ということを明らかにしなければなりません。
 具体的にいえば仮説実験授業の理論に関する本を熱心に読もうともしないで授業をやろうというような人びとにまで、この授業法をひろめようとしてはならないと思います。少なくとも、仮説実験授業について他人にも充分よく説明できるほどの人が日常的に接触しえて、その授業の改善にたえず示唆を与えうるような場合でなくては、いけないと思います。そういう条件をみたさないで、私たちの授業書を安易に使用したというだけの授業は仮説実験授業と呼ぶわけにはゆかない、と破門宣告をすることも必要でしょう。私たちはそういうことが生じないために、私たちの本や雑誌の熱心な読者以外に授業書をわたさないようにしなければならないと思います。
 私たちがこういう体制をとっていれば、仮説実験授業が流行化する危険はよほど防げるのですが、私たちの研究に悪意あるいは善意ある人びとがこの研究を挫折させようとしたり、急速に発展させようとしていろいろの形で流行化させる手段をとることはさけがたいように思われるので、よほど注意しなくてはならないと思うのです。
 しかし、だからといって研究の普及に臆病になってはいけません。正しいこと、たしかなことはそれとしてはっきり声を大にして普及しなければなりません。だた、表面的な人気とりはいけないというのです。石橋をたたきながら堂々とわたることが必要なのです。仮説実験授業の成果はすばらしいのです。なんでそれをだまっていられましょう。そんなことは偽善です。いちはやく、できるだけ早く、そのすぐれた成果をひろげなければならないと思うのは当然です。しかし、それは、仮説実験授業という名称や一部のテクニックだけであってはならないのです。一部だけ普及しても従来の授業よりずっとよくなるということも言えますが、それはやはり仮説実験授業そのものでないことがはっきり宣言されてのよでなければなりません。仮説実験授業は、科学教育学の最初の理論として、一つのヒューマニスティックな思想として、確実にその支持者を広げてゆかなければならないのです。
 いまの学習指導要領のもとで、現場で仮説実験授業を着実にすすめるのは大へんなことです。そこで流行化でもした方がやりやすくなると思われることもあるかも知れません。しかし、それは一時のことです。みんなの力をあわせて一つ一つ障害をのりこえていきましょう。あたらしい科学をきづくためには、ガリレイやダーウィンが経験したような社会的困難をのりこえる必要があるのです。それは決して頭のよさの問題ばかりではなく、社会的な態度、根性の問題です。
 私たちの頭は人並み以上にすぐれてはいないかもしれません。だから、すでに社会的に安定した学問の世界では一流の業績をあげることはできないかもしれません。しかし、私たちはいかなる社会的困難にもめげずに新しい科学を築こうという根性をもっているのです。それが私たちの最大の強みなのです。だから私たちはガリレオ・ガリレイらと同じような仕方をすることができるかもしれません。根性をもっているだけでなく、私たちはすでに物理学での落下の法則の発見にもあたる科学教育学の建設のための基礎となる確かな証拠をにぎっているのですから。
 オーバーかな?
 初夢かな?
 しかし、少なくとも私はこういう誇りをもって今年の研究に全力をあげるつもりです。
 今年もよろしくおねがいします。
(1966年1月1日24時10分前)

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